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五海ゆうじ写真通信105

「家と痕跡」
今年(2016)兄の一周忌で境港へ行った。
私は出雲生まれで兄は3人いまして、その長男です。
何故に長男は境港に住んでいたか。。。
まぁ、そこに我が家の歴史の一端があるんですね、
母は、私を生むとすぐ死んでしまった。
そして母の故郷が境港だった。
母の父つまり私のおじいさんはですね、
おそらく1920年前後だったのではないかと推測するんですが、
これもおそらく出雲の方から自分の夢を実現するために
山陰ではもっとも大きな港境港へ向かった。
聞くところによるとその夢はですね、
何の目的かは図り知れませんが、東南アジアに行く事だった。
しかしです、これもままあることで、
境港で好きな女性ができ家庭を持つ事になった。
それでです私の母が次女として生まれた。
長男(私の叔父)は事業を起こし成功し、
境港で商工会議所の会長まで勤めるようになったんですね、
まぁ、そういう事もあり、
我が家の事情もあり、兄は叔父の会社に勤めるようになり、
家庭を持ち、そして骨を境港に埋めた。
で私ですが、まぁ、これもいろいろと事情があり、
境港の叔父の家によく遊びに行っていた、
というよりは行かされていたかも知れない。。。。

というわけで境港です。
今回それこそ何十年ぶりになる境港の街を歩いてみたんですね。
かって歩いていた駅からのメインストリートは、
ゲゲゲの鬼太郎一色になっている。
その通り歩きながら、これも町興しか。。。
なんて事を思いながら鬼太郎饅頭を食べつつ、
かってよく行っていた叔父の店件住居に向かった。
ゲゲゲの鬼太郎通りを進んで行くと植田正治写真館があり、
(これは改装され綺麗な記念館になっていた)
そこを右へ曲がって5軒先あたりにその家はあるはずだった。

あった。。。まだあった。
廃屋になりがらも、その家はあった。

写真は叔父の家2景
_035境港
5軒先あたりの白い看板が植田正治記念館
兄はそこにかってあった植田写真館で結婚式の写真を撮った

_033境港
住居用の入口



五海ゆうじ写真通信104

「SchurichtとHelen Merrill」
かってはですね、こう世に恨みつらつら街をただただひたすら歩き
写真を撮っていた時期、つまり若かりし頃でありますが、
クラシックのましてやオーケストラ、交響曲です、
なんていうのは聞く気もしなく、といおうか音楽ではない、
とまで思っていたんですね。
それがです、まぁいい加減といおうかなんていうか、
よく聞くようになった。
私のクラシック師匠二人なんですが、ほんといい耳を持っていて
いろいろな曲を紹介してくれるんですね。
その中で一人の指揮者を教えてもらった。
Carl Schuricht
始めはブルックナーの9番だったんですね。
それがよくてもう一人の師匠に話したら、
彼のベートーベンとモーツァルトもよいからとCDを貸してくれた。
でです、ここのところモーツァルトの交響曲を繰り返し聴いておるのですよ。
オーケストラってのはこうなんだと思いつつです。

でHelenMerriluはどうよ。。
それはです。。。
若かりし頃はですよ、ジャズだけが音楽だと、
まぁかように力強い偏見で聴いていた。
ジャズといってもいろいろありまして
ヘレン メリルなんていうのはジャズの風上にも置けない、
とこれまた力強い偏見を持っておったんですね、
それがまたまたであります。
何年か前、
友人の軽井沢の別荘でお互いかなりへべれけに酔っ払い話した後、
その友人が最近手に入れたからとヘレン メリルのレコードをかけてくれた。
それがですね、またよくて
「おー、いいじゃないか。。。」といったら
友人曰く
「いいだろう、お前は昔なんていっていた、ほんとお前はいい加減だよなぁ。。」
まぁしかしいいものはいいんで、
こんな形でヘレンメリルがこころに入ってくるとはです。
そう、こんな形で入ってくる音楽なんだと気が付いた訳であります。

写真は裏横浜2景
900.jpg

08.jpg

2016/9/4

五海ゆうじ写真通信103

「歴史と虚構」
船戸与一の「満州国演義」全9巻をほぼ一年をかけ読み終えた。
仕事を終え帰りの飛行機の中での数時間、
数ページしか読めないが本を開く、
それは本当に楽しい一時だった。
そのようにして読み繋いできた。
資料を綿密に紐解き物語(虚構)を積み上げていく。
その物語(虚構)はどんな歴史資料よりも歴史を語り、
歴史の中での人々の生活を伝えてくれる。
それはつまり作家の時代を見る視線と姿勢
そして想像力がものをいう。

以前にも書きましたが、
船戸与一は人生最後になるであろう小説の舞台に
何故満州を選んだのか、
今、この本を読むとそのメッセージが
私達にずっしりとのしかかってくるんですね。
愚かな政治家達が、
いいようにやれる時代をつくった今の日本への楔の一本、

そしてあとがきは次の言葉が引用され締め括られている
「歴史とは暗黙の諒解のうえにできあがった嘘の集積である」
ナポレオン・ボナパルト

写真は森を歩く2景
奥志賀林道
_211志賀高原

志賀高原にある池
09志賀高原電球-2

2016/8/6

五海ゆうじ写真通信102

「ガラクタと宝物」
前回に続き変な男望月広の話であります。
どれだけ変な男かというとですね、
ある日忘年会の席だったと思うんですが、
突然に「ホームレスの世界大会を開こうと考えてんだが。。。」
というような事を言い始める。
そして回りから総スカンをくったりするんですね。
東京ユニオンで無組織労働者のための
活動をしていることは知っていてもですよ。。。
「おまえなぁーーーーいくらなんでもそれは。。。。」
まぁ、そんな感じではありました。
彼はどういう訳かガラクタカメラが好きで、
どこで探して来るか、使い物にならなくなったカメラを
私の所に持って来て置いていくんですね、
それが何台か私の手許に残っている。
そんなやつがくたばってしまった。
通夜の席にはホームレスと思しき人達が来て
手を合わせて帰っていった。
葬儀の弔辞は写真学校時代からの仲間、
映画監督の崔洋一が受け持った。
当然と言えば当然だが彼は
「安らかに眠れ」などということは言わなかった。
その言葉はひょっとしたら私達の仲間、
仲間といっても写真学校時代の仲間ということではなく、
あの時代を生きた若者、つまり私達を含めたという意味でもありますが、
決して闘う仲間などということは言いません決して。。。
にしか解らない言葉だったかもしれない。
しかしどうしようもなく込み上げるものがあった。

そして彼の骨は家族の手によって沖縄の海に撒かれた。
そしてこれも当然ですが彼の墓はないんですね。

写真はがらくたカメラ
14がらくたカメラ

2016/7/9


五海ゆうじ写真通信101

「出合いと消失」
話は写真学校時代に戻ります。
あれやこれやとありながら写真学校に入る事は入った。
しかしですね留年しながらもなんとか持ちこたえようとやっていたんですが、
いかせん学校の課題提出と授業料を払うことが両立しない。
授業料を払うために働いていたら
学校から出る膨大な課題を消化することができない。
課題を消化するためには今勤めている所ではとても無理だ。
まぁ、そんなこんなで、日雇いの仕事をしながらやれば、
休むのも自由だしなんとかなるんじゃないかと、
会社を辞める事にしたんですね、
しかしです、住み込みで働いていたので自分で部屋を借りるしかない、
つまりです部屋代が派生してくる。
今度は部屋代を払うために四苦八苦するはめになり、
結局は部屋を追い出され学校で知り合った友人の部屋に転がり込んだ。
そんな事をしながらも学校だけは行き続けた。
それを支えたの学校の授業ではなく、
学校で知り合った友人達だったんですね。
田舎出の私としては、学校で知り合う友人の一人一人が驚きであり、
彼等と話す事が、もう何とも言えず面白かった。
写真について夜を徹して話し合う、議論が高じて喧嘩もする。
そんな生活の中で、何人かの友達と言える人もできた。
時は1969年、世が騒乱状態になる頃なんですね、
私は夜間部の自治会に参加していて、
政治の季節と言われるその時代に突入していった。
学校はご多聞にもれずバリケード封鎖になった。
授業料を払うため、食っていくため、懸命に格闘していた私としては、
どっちかというと、そんな彼等の闘争を批判的にちょっと斜めにみていた。
しかしです、そんな闘争のなかで忘れられない
何人かの友達ができていったんですね。
その中の一人ですが、バリケード闘争を引っ張っていた男がいた。
名前を望月広という、
言う事やる事がかなりといおうか全くといおうか無茶苦茶で、
それでいて回りからは、
あーだこーだと言われながらも何故か憎めなく好かれていた。

彼は6年前に死んだ。

写真は「人の中へ」2景
京都9条
_008京都

高知播磨や橋付近
_005高知2


プロフィール

iikonodon

Author:iikonodon
広告写真を撮りながら、花と植物、街と人、の写真を撮る作業を続けています。
2011年より電子書籍の出版を開始しました。

※当ブログ内の写真、テキスト等の
無断借用、転載などは固くお断りいたします。

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